御宿よじげん

ほがり 仰夜 作

これからの始まり

「ああ、ねこの、幽霊が」
 それは雨の日に必死に顔を洗っていたという。立派な白いひげから垂れる雨滴を、掬い取っては舐めまた垂らし、ずぶ濡れの黒い体毛は烏のようにてらてらと黒光りし、子供のままの赤を残した舌は、鍾乳石のような歯の間をずるずると往復し、舌に掬われた雨粒は洞窟の奥でぴちょんぴちょんと安らかに鳴るだけとなった。
「お客さん、今日のお宿はお決まりで?」
 鍾乳洞の奥より猫の声が聞こえたかとおもったら、雨はぱたと止み、月が一つ、なにもない夜空にあるだけになった。
 猫が食ってしまった雨が、降ろう降ろうともがいているのは、その月の向こう側のお話だろう。光が見える。赤い舌に舐めとられた滴は一つ一つが月であり、猫は一日を熱心に一つずつ食べ続け、洞窟の奥に溜め続け、時折間違えて鳥や人間を飲み込んで、それらを赤い舌が月を飴玉のように小気味良く撫でる、月はすっかり良い気分となって日を忘れる、曜日が狂った異界へと招くのだ。
 さてでは、ここはどこの世界かお分かりか?
「御宿四次元へ、ようこそ」
 猫ときたら適当なことばかり言うから、ここはおそらく植え込みの間に出来た通路や、人と人の所有物の隙間に出来るなにでもない空間だ。レーダーの網間を掻い潜りたどり着くひそかな地だ。彼らのよく知る道というただそれだけだが、それは同時に彼らの手の(あるいは肉球の丘陵の)うちにあるということで、じゃれて転がされても文句を言えない。ああ、どこで何が起ころうとも文句は言えないのさ。だがそれではいけない。守るものもあっただろう。手につけかけた仕事も、曖昧な楽しみも、部屋に転がしている一日の種たちが明日を待つ。猫の道路に紛れてはいけない。獣道の交通法を知らない者が。

 猫がこちらを見ていた。お前は御宿の亭主? 聞いたらそっぽを向かれた。猫違いか。月は犬歯に挟まったまま動けなくなったから、夜が続く。月まで生き殺しに、肉球の中で遊ぶとは猫は残酷。きみとて野生には戻るまいに。悪態に猫の顔ではなく尾が笑った。お前こそ亭主? 問うとまた逃げる。繋がっているようで繋がっていない世界。言葉は通るが意味は消え入る。音として認識されるだけの言語。
 収束点にみな向かっていくだけなのだ。あちらへ、あちらへ、急ぐことはありません。胃へと落ち、曲がりくねった戸を叩き、後には満天の星、円い盆の空にだけ輝く星。目を閉じれば闇。開けば星。それらはいつか瞼の裏に焼き付く。星を目に飼うことになる。星が瞬き、明滅を追う、誰もが御宿四次元に向かう――。

 宇宙にいます。私は宇宙にいます。土は赤く空は紺、天井に手が届きます。私は花びらをむしり積もらせていくのですが、その作業は延々と続いていきます。焼ける空もネガポジを入れ替えてあげて、きっと空気を持ったまま立てる空に。そこには何事も無く、私は何もしていないので、誰もが安心するのです。
 猫が眠ると四次元が動き出して危険ですが、あなたがたは眠っても大丈夫。
 ええ、御宿はこちら。お荷物はしっかりと持って、お眠りください。

 眠っても大丈夫。我々の眠りは深い。眠りはあっという間に御宿四次元へ。

   ..end

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